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春の死について

高校の後輩が春に死んでから
もうすぐ一年になるものだから、
彼女がSNSに残した日記などをつらつらと見る。
見てしまう。

全般、
春に心が悪くなりやすいのは本当のことで、
四月の精神科外来は毎年、明らかに混雑する。

付き添いの母親の呼びかけに皆目こたえない若い誰かの焦燥した横顔や、
ストレッチャーに拘束されて運ばれていく
若いのか若くないのかもわからない誰かの
そこだけあらわな汚れたスニーカーなどを眺めながらやりすごす待合は、
それだけで非常に消耗する。してしまう。

会社の同期もひとり、四月に死んだ。
もうあれは十年以上前のことだが、
十年前の僕はまだ相対的に健康だったので
彼女がなぜ死んだのか、切実には理解できず
ために、
その死を哀しんだり悼んだりすることも容易かった

それが去年、後輩が死んだときは
もうなにもかもすっかり変わってしまっていて、
彼女が生きているのと死んでいるのと、
その境目にふらふら立って
何かの加減、あちらがわに飛び降り消えていく瞬間の心持ちを
自分の感覚としても
あまりに近く知りすぎてしまったため、
哀しいというより、第一おそろしかった

よくもまあ、自分は死なずにすんだものだと

そして僕は、
第一おそろしいと思った自分を恥じたし嫌悪した
今も恥じているし、嫌悪している

SNS上の後輩の日記は
法科大学院に通っているころから始まっていて
落ち込んだり、元気になったり
文面から読み取れる感情の起伏も
最初のころは至極尋常な範囲のものだが、
それがやがて、今にしてみると
尋常ではなくなってくる

本格的な療養に入って以後は
更新の頻度が数か月に一度になり、
次の日記、次の日記とクリックすると
記録された時間は加速度をつけてびゅんびゅん過ぎ去り、
そして突然

『これ以上、日記はありません。』

一瞬、虚を突かれた。
見てはいけないものを見たように感じた。

見てはいけないものなどであるはずがない、
見てはいけないもののように感じるのは
自分が恥じているからだ

そのうちこのような物思いも
春がめぐるごと、濃度を失っていくだろう
だが今年の春はまだ、物思わずにはいられない

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