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雪国

Yukiguni_3

雪国は今まで何回も読んでいる小説で、
何回も繰り返し読むということは
それだけ強く惹かれるものがあるということなのだが、
惹かれるからと言って、じゃあ好きかと訊かれると
好きというのは正直ためらわれる。後ろめたいからだ。 

確かに文章は呆れるほど美しく、
日本語表現の極北と言っていい。
そして、そのような極端に美しい文章で何が書かれているかといえば、
『美しいっていうのは、こういうことだよ』
ということの過剰なまでの例示であり、
その主要な部分は、『女という存在の美しさ』についての叙述で占められる。 

とりわけ強い印象を受けるのは、
このことを語るにあたって
川端康成が
女という存在を、
徹頭徹尾
『人』ではなく『モノ』として扱っているように見えることだ。
女の真剣な生き様や哀しみの発露を、
それこそ『美術品』として、微に入り細に入り『鑑賞』する態度である

『人のモノ扱い』、これは
西洋近代(モダン)の価値観からするとまぎれもない悪徳である。
だが、悪徳だからこそ強烈な魅力を発散することもまた事実で、
そこに後ろめたさが生まれる。
ここあたり、フランス革命期にマルキ・ド・サドが激烈に嫌悪された理由と
本質的に似ているところがある。
つまりは行儀の悪さへの憧れ、不健康な食べ物への渇望であり、
川端の場合、サドとの違いは、
非常に丹念に砂糖がけされていることだけだ。

このような『人のモノ扱い』を一例とする
『前近代=プレモダンの背徳』を通奏低音にしたやりかたは
現在に至るまで枚挙に暇が無く、
その後ろ暗い訴求力は、多くの人々を惹きつけ続けている。
それはたとえば村上春樹の諸作品の中にも色濃くあるし、
たとえばファイブスター物語のヒロインが人造人間であることもそうだし、
広く言えば、
砂糖がけをさらに徹底されて、『萌え』という概念の一部にもなっている。

きれいなところだけ抽出するということは、
つまり汚いところは全部捨てるということで、
人に対してそれをするには、モノとして扱うしかない。
そのような残酷を完全にやりきっているという点で、
雪国は再読のたびに感心する小説だ。
だが好きというのは、やはりためらわれる。
並外れて異常だ。
並外れて欠落している。
しかしそのように巨大な欠落こそが、才能なのだと強く感じる。

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